防げた被害 国が拡大
新潟水俣病 公式確認60年 発見時から診察続ける医師 齋藤恒(ひさし)さん(94)

新潟県阿賀野川流域で、旧昭和電工鹿瀬工場(現阿賀町)のメチル水銀を含む工場排水により汚染された川魚を多く食べた住民らが有機水銀中毒となった新潟水俣病。1965年の公式確認から、5月31日で60年になりました。発見直後から水俣病患者の診察を続け、被害者救済のために現在も声を上げ続けている医師の齋藤恒(ひさし)さん(74)に思いを聞きました。(新潟・伊藤誠)
熊本で水俣病が発生した時(1956年)に、行政が魚の流通を制限できる食品衛生法を適用し、しかるべき処置をとっていれば新潟水俣病は防げたのです。国は、水俣湾や阿賀野川流域では多くの調査をしましたが、原因と疑われる工場への立ち入り検査を一切行わず、発生源の特定が遅れました。工場排水の規制もせず、被害を拡大させた国の重大な過ちです。
そして、熊本でも新潟でも漁民に何の補償もせず、漁獲の自粛しか求めなかったことも大きな誤りでした。阿賀野川流域には当時、約2000人の漁師がいました。「魚を取るな」と言われても、ほかに収入はありません。そうしたもとで、「自分たちの地域から患者が出たら、魚が売れなくなる」と症状を隠し、被害や差別が広がりました。

狭い認定基準
65年当時、私は新潟市にある新潟勤労者医療協会(勤医協)の沼垂(ぬったり)診療所にいました。夜勤を担当する新潟大学の医師から、「阿賀野川下流域で有機水銀中毒患者が見つかった。川魚が原因のようだ」と言う話を聞き、大変なことが起きたと驚きました。
その後、多くの患者が診療所に来ました。新潟大から水俣病を研究する医師を派遣してもらい、診療所が診療・調査の拠点になりました。
新潟大が行った発生地域の全住民の訪問調査で、水俣病と判定された26人の患者のなかには、「感覚障害のみ」など、現在裁判で認定を求めている原告と同程度の症状の人も含まれていたことは重要です。
国は、公害健康被害補償法(公健法)による患者認定を行いましたが、77年に基準を厳しくしました。感覚障害や運動失調などの症状が二つ以上ないと認定しないとされ、水俣病認定の棄却件数が急増しました。これが60年も、水俣病の解決が進まない要因になっています。医学的・科学的な診断が、政治的にゆがめられたと怒りを覚えました。
水俣病患者77人が旧昭和電工に慰謝料を求めた新潟水俣病第1次訴訟(1967年)から支援に加わり、証言に立ってきました。勤医協や労働組合が患者支援組織「新潟県民主団体水俣病対策会議」を結成し、私もその議長として何度も県交渉を行いました。
食品衛生法で
いまは、症状があっても認定されない被害者が県を相手に行政認定を求める裁判に参加しています。家族に認定を受けた患者がいて同じ症状があるのに、認定を受けられない人がいます。
水俣病は、医師が診断しても公健法に基づいて自治体が設置する審査会で患者かどうかを判断します。こんなことは、食品衛生法ではありえません。私たちは、食品衛生法に基づき患者を確定して、加害企業が補償するべきだと当たり前のことを求め続けています。(2025年6月4日『しんぶん赤旗』)